新海誠監督の新作『天気の子』観てきました。割と評判がわれていると聞いていますが、若い人には好印象な感じをTwitterのTLでは感じています。またうるさ型でオタクでも新海誠を良く知る層や、同時代のオタクでその文脈を理解できる層にも高評価を得ているようです。一方で痛烈に批評している人もいらっしゃり、完全に新海誠監督が仕掛けた部分に乗っているなという気がしないでもないです。あれですよね『シン・ゴジラ』で重要人物である牧悟郎が残した言葉『私は好きにした、君らも好きにしろ』ですよね。
この言葉存外この作品の核になってる気がしていて、『シン・ゴジラ』と同時期に公開され超メガヒットとなった『君の名は。』の新海監督が影響を受けたのか…それはどうかは分からないけれど牧教授の言葉を強く感じました。そもそもtonbori堂、実は新海誠に疎い人です。これまで話題になったタイミングで観る機会があったものの何故かスルーしていて『君の名は。』でやっと新海誠作品を観たという感じで。その時も結局感想はつぶやいたくらいでした。ってことで今回はちょっと書いていこうかなと思っています。
※クリティカルなネタバレをしてしまうかもしれませんので基本こっから先の文章はネタバレということでよろしくお願いいたします。
雨が降っている世界。(あらすじ)
鬱屈した心を抱え島を飛び出した少年、帆高(ほだか)。自由を求めて東京に出てきたものの家出少年である彼に世間は冷たかった。しかしたった一人バーガー店のアルバイトの少女が優しくしてくれたことが彼の心に東京に来るときに知り合ったライターの事務所に向かう勇気をくれた。
須賀は主にオカルトものの記事を手掛けて糊口をしのいでいるしがない男だったが唯一の社員である夏美とともに怪しい占い師に取材出掛け、テープ起こしから記事を作成し採用された。住み込みアルバイトとして帆高にとっては願ってもない条件だった。
陽菜(ひな)と再会したのは仕事にも慣れてきたころだった。怪しげなスカウトマンに絡まれていたと思った陽菜を助けようとするが実は陽菜はバーガー店のアルバイトをクビになって新しい仕事を探してたという。
2人で逃げ出して代々木の廃ビルに逃げ込んだ2人。そこで帆高は陽菜が祈ると小さな範囲だけ晴れ間をつくる力を持つことを知る。噂の100%の晴れ女としった帆高は徐々に陽菜との距離を縮めるが彼女が母を亡くし弟の凪と2人だけで暮らしていること知って陽菜の力を使って仕事をしようと思いつく。サイトに来たフリーマーケットの会場を晴れにしたのを皮切りにいろいろなところで晴れにしていく陽菜と帆高。運動会、結婚式etc、しかし神宮外苑の花火大会当日の晴れ間を作った映像がTVに流れ依頼が殺到。それまで受けていた依頼のみをこなして一時休業することに決めた。
その頃、帆高が街を徘徊していた時に拾った拳銃を例のスカウトマンに発砲したことと家出したことから行方不明者届けがだされていたことで警察の手が伸びてくる。重ねて陽菜たちには児童相談所が介入することに。警察は須賀の事務所にも現れ彼が誘拐したのではという嫌疑をもっていたようで、須賀は帆高に島へ戻れと諭すが島に戻る気のない帆高は陽菜と凪とともに逃げることを選択した。しかし陽菜の体に徐々に異変が起きていて、その上、町ではさらに天候は悪化の一途をたどり気温も下がっていく。狂っていく世界の果てに帆高と陽菜には思ってもみなかった運命が待ち受けていた…。
Notブレードランナー
tonbori堂は古いかもしれませんが雨というとまず思い出すのが『ブレードランナー』そして『セブン』です。分けてもずっと雨が降っている世界観といえば『ブレードランナー』ですよね。そもそも映像作品に限らず創作での雨というのは陰鬱な感じで使われることが多いし、またはじっとりと重い感じをだすときや情感を込めるときに使われることが多いように思います。ですがこの『天気の子』では明らかに異常気象であるこの雨が続く東京をそんなに悪いものと捉えていない気がします。なんだろう、雨は降っているしそれは自然現象だから仕方がない。でも晴れると気持ちが晴れるという事で雨と晴れしかないオンオフしかない世界のようになっているなと思いました。
ブレードランナーは最初はデッドエンドを象徴するかのような雨降りで終盤はオンオフのようにレプリカントは酷使され死んでいきそれを洗い流すかのような雨が最期に降るけれど、この「天気の子」世界の雨はいいこともいやなことも全部流す雨のように意図的に描かれているようなそんな気がします。雨だから湿っぽいんですが、意図的に闇のない雨というか予兆もあるけれどそれ自体は「あるもの」人知を超えた現象ではあるのだけれど、それは昔からそうだったとして描かれているように感じました。
レインメーカー
それと晴れ女のメカニズムとして全ては説明しないけれど空中にいる体成分がほぼ水のようなようするにクラゲにちかいけれど知性をもった何かが潜んでいて、それと交信できる「巫女」が天候を鎮める事が出来る。気象神社の神主さんと何度か描写される積乱雲の上にあるラピュタめいた天空の桃源郷を見るにそういうところだろうなと。
これはあくまでもマクガフィンなので最終的には帆高と陽菜の物語がメインなのでそこの謎解きはあまり関係ありません。とは言え同じような状況で、しかも最初から最期まで自衛隊が仕切るアニメ『ひそねとまそたん』は天候というか日本を支える龍であるミタツ様の「マツリゴト」の巫女(サクリファイス)をぶっとばして代わりになり、その上で戻ってくるひそねたちと似通っているようであちらは世界は少し変わったかもしれないけど平穏に落ち着いた。つまり元の日常が帰ってきた。だけど『天気の子』は世界の有り様がそれまでと変わってしまった、その非日常が拡大されてしまった事を考えると実に興味深いんですよね。
もちろんこの結末は新海誠監督が仕掛けてきている訳なので議論が巻き起こって当然ではあろうし、それよりなにより有り様が変わったとしてもハッピーエンドなんですよ、この話は。帆高は彼の想いを遂げる事が出来たので。そういう意味ではひそねと同じで彼も「無敵の人」なんですよある意味では。それに違和感が残るとしたらそれは予め予定された違和感なんだろうと思います、観た後に引っかかりを残し記憶させておくための。そういうのは『攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL』や『イノセンス』の押井守監督も違和感潜ませてくるけど押井監督は彼女も戻どらないし天気ももどらない(雨は降らなくなったけどずっと曇天)みたいな結末になりそうです(笑)
無敵の人
無敵の人ってのは「ひそねとまそたん」の時にも(エントリのタイトルにもしました。)ネットスラングで失うものが何もない人、基本的には経済的困窮やそういうネガティブな発露があってのことなんですが、それが反転して無敵の人が世界を救うっていうのが面白いなと思いましたが、こちらはそうではなくある意味何もないけど今この瞬間の幸せを守るために他は全て捨てても惜しくはない…という無敵の人です。浮遊し落下する
最初に陽菜がそらに舞い上がり、クライマックスで帆高も空へと舞い上がります。ラピュタとの相似点を思った人もいるかもしれないし、また空の描写には覚えのある人は多いでしょうけど、どちらかと言えば落下するシーンが『うる星やつら ビューティフルドリーマー』を想起しました。あたるがラムの夢の奥底で小さいラムから「責任取ってね」といわれてぐわっと引き戻されるシーン。浮遊は現実を解脱していく、しかし落下していくと言うのは現実へ戻るという暗喩である…なんてことは割と簡単に考えるところではありますけれど、帆高が君と一緒にというところでやっぱりカタルシス効果があるのでしょうね。
そこが押井監督との決定的な違い。現実を受け入れながらも変わらずという部分は通底していても全てがうたかた幻のようなものとするか、それともやっぱり流されながらも大事なものは大事だと信じれるか。押井監督はある種の諦念があり、新海誠監督にはそこにジュブナイルな希望があると思っている。まあそこは好みだと思います。
新海誠というスタイル
ビジネス的な生臭い話をすると『君の名は。』の大ヒットを受けてこの『天気の子』もヒットしているようでまずは良かったのではと思います。まさにポスト宮崎駿に近づいたのでは?という感じですが既にそういう次元ではない感じも受けます。(宣伝体制としては既に『君の名は。』の新海誠監督の新作!という売り方)実はこれまでに短編含めて相当数な作品を作っている新海監督は既に確固たるスタイルをもっているんですよね。なので芯がある。そしてメガヒットという看板もある。だから今回制作にもその影響を感じたとか。
もっともこれまでポスト宮崎駿ともくされた細田守監督やスタジオポノックの米林監督もいらっしゃるんですけど…細田監督に絞って言えば『時をかける少女』から『サマーウォーズ』ときて『おおかみこどもの雨と雪』がちょっとターニングポイントだったかなと。『バケモノの子』ときて『未来のミライ』が奮わなかった。『君の名は。』のメガヒットとは関係ないとはいい切れなくてボーイ・ミーツ・ガールはこの国でのヒットまたはロングラン、心に残る必須要素ではないのかなと少し思ったのです。細田監督もそれを得意とするけれど『おおかみこどもの雨と雪』からファミリーへの指向が強くなり、それがちょっと受けていないのかなというのは余談ですが気になる所ですね。
また観客の動向を掴める、または観客目線で直言できるプロデューサーがいればとも思いますが宮崎駿に鈴木敏夫がいるように新海誠には川村元気がいるような、そんな感じでしょうか。いみじくも昔、押井監督が新海誠評として面白いものを作っているんだけれど一人では限界があるから(新海誠監督の初期作はほぼ一人でつくられている短編作品)共同作業をしたほうがいいという話をしていました。(ソースは失念。相当前に彼の短編がウェブで期間限定で公開された時に目にしたように思います)
ここまでくるには紆余曲折あったけど最初から彼を見出したコミックスウェーブとともに川村元気という敏腕を迎えた事が新海誠監督のスタイルを世に知らしめたのは間違いないかなと思います。この先このコンビネーションでどういう作品が産み出されてくるのか?そこも今後気になる所です。(多分次回作に向けてはもう動き出しているでしょうから)
最後に
『君の名は。』は凄くジュブナイル小説っぽいなと思いましたが、今回の『天気の子』は輪をかけてジュブナイル小説っぽい作品でした。今で言うならラノベでしょうけどラノベのような特化の仕方が違う、何か別の青臭さを感じる作品だったように思います。
そして東京という街を描く監督としては押井守とはまた違った、そこにある街として描写しているのもまた時代が変わったなとも感じました。なんというか惜別…いや暗い闇みたいなものがあまり感じられないライティングもジュブナイル感覚を感じましたね。
他にも積乱雲の上の世界や身体の成分の7割が水な人間とほぼ100%水の生きものの謎とかは考察したい人にはうってつけだし(特段説明は劇中ではなされていません。唯一気象庁の人へのインタビューシーンでそれが示唆されるだけ。何かというのは気象神社の神主さんの話であり、それはよくある類型的説話として処理)『君の名は。』を観た人へのギフトもあり結構盛りだくさんでしたが気象神社でのお話や立花のお婆ちゃんの言葉がけっこう新海誠監督の今の世界を乗り越えるヒントなのかもしれません。今起こっている異常気象は100年いや数百年タームの話。確かにそれで人は難儀するけれど、それよりも目の前の物を大事にしようよと。まあそれが刺さるか刺さらないか(無責任と捉えるかは)観た人次第ではないでしょうか。
ちなみに今回「セカイ系」というワードは今使ったのが初めてですがそれについては言及しませんでした。エヴァンゲリオンもセカイ系と括られてはいますが青春の多感な時代に「セカイ系」に触れていない旧世代に属するおっさんにはそれを突く事は難しかったからです。なので今まで見て聞いたことで言及してみた次第です。ただしタイトルのみそれを意識した感じにしましたけど…いや滑ってるなこれ(苦笑)
では最後に押井監督がもし『天気の子』を撮ったらこうなるんじゃないかという小話で締めたいと思います。(Twitterでつぶやいたもの)
既に10年以上もずっと降り続く雨。この止まない雨の世界にある噂が流れる。「100%の晴れ女」という女がいるという。嘘か真かその女がいるだけでその地は晴れるという。その噂の真偽を確かめるべく義眼のサイボーグと彼の愛犬は世界の果てへ旅立つ。>押井守版『天気の子』— tonbori堂@さらにいくつもの片隅に待機中&エンドゲームはいいぞ。 (@tonbori) August 20, 2019
参考ソース
天気の子 インタビュー: 新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程 - 映画.com
『天気の子』新海誠監督 単独インタビュー - シネマトゥデイ
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