実はミュージカル、初見の腰が重いため(嫌いでは無いです。何せ『サウンド・オブ・ミュージック』はマイフェイバリットに入っております)見逃したままになってた『セッション』のデイミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』が日本テレビの「金曜ロードショー」で放送され鑑賞しました。(2019.02.08)今回はそこでチャゼル監督作『セッション』(公開時に鑑賞済み)と絡めて書きたいと思います。
※映画『セッション』のストーリーの核心部分などを書いております。つまり結末まで完全にネタバレしておりますので何卒ご了解の上お読みください。
始まりは『セッション』
アカデミー賞を受賞し(助演男優賞)、オスカー争奪レース喰い込んでチャゼル監督の名前を一躍有名にした作品です。当時この作品を観に行ったのはアカデミー作品賞を『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』と競ったということでちょうど同時期公開だったので両方観ました。そもそもは『バードマン あるいは(以下略』だけを観る予定だったんですが時間があったしJ・K・シモンズもいろんなドラマや映画に出てる俳優さんで予告編が強烈だったこともあり両方を一気に観たんですが…。いやもう大変でした。以後2本を重ね観るという事が出来なくなりました(苦笑)それぐらいライフをごっそりもっていかれる作品です。
ウィップ・ラッシュ/「セッション」ストーリー
ニーマンは19歳、才能があるドラマ―で何時かは平凡な日常を抜け出しミュージシャンとして大成することを夢見ています。名門であるシェイファー音楽学校でドラムに打ち込むニーマンに、シェイファーで一番の指揮者と名高いフレッチャーがニーマンの演奏を聴き、彼を自らの指導するバンドへ勧誘します。有頂天になるニーマンでしたが、それは地獄への入り口に過ぎませんでした。フレッチャーは度を超した完璧主義者で、ミスしたものを容赦なく罵倒し、潰してしまうほどの男だったのです。
彼に面罵され伸びたプライドをぺしゃんこにされながらも、父のような平凡な人生は送りたくないとニーマンは必死でフレッチャーに喰らいついていき、恋人とも別れ全てを音楽にささげる生活を送り始めました。それはまさに鬼気迫るものでしたが、やがでコンテストの選抜バンドにレギュラーのドラマ―を差し置いて選ばれる事に。しかしコンテスト当日ニーマンは遅れたためにレンタカーを使用し事故にあってしまいます。なんとかたどり着くものの演奏は散々でフレッチャーから最後通告を言い渡されてしまいます。
音楽学校をやめたニーマンの元にバンドから放逐された後、事故死したクラスメイトの弁護士が彼の元に現れます。クラスメイトの死は事故死ではなく自殺でありフレッチャーの責任を問いたいと彼に持ち掛けます。夢破れたものの、どこかでまだフレッチャーに認められたいニーマンは一度は断りますが、全てを無くしてしまった現実にニーマンはフレッチャーにも同じ屈辱を味わせたいと、匿名を条件に証言をするのでした。その結果フレッチャーは音楽学校を辞めさせられることに。ニーマンは普通の大学に通う事になりバイトをしながら普通の生活を送っていました。
しかし街のジャズクラブでピアノ演奏をしているフレッチャーと偶然再会。フレッチャーはニーマンに以前の仕打ちを詫びましたが、あくまでも偉大なジャズプレイヤーを産みだすための情熱だったと語ります。そして今はバンドを組んでいて有名なジャズ・フェスティバルJVC音楽祭に参加するのだが今のバンドはドラムが弱いので叩いてくれないかと誘います。フレッチャーの悔い改めた態度にニーマンは心を許し、またドラムを叩く情熱が蘇ってきました。しかしそれはフレッチャーの罠でした。彼はニーマンが証言をしたことを知っていて彼をプレイヤーとして破滅させようとしていたのです。フレッチャーのバンドの演奏の順番となったとき、ニーマンには「ウィップラッシュ」という曲のスコア(楽譜)を渡しておき、実際は別の演奏を行ったのです。ニーマンはまともに叩けることなく演奏は終了。フレッチャーは勝ち誇ったかのように次の演目に移ろうとしたとき突然ニーマンはドラムソロを取り始めます。激しいドラムソロにバンドメンバーも引っ張られていき溜まらずフレッチャーが止めようとしますがそれでもニーマンは止めません。やがてフレッチャーが指揮をとり始め「セッション」がはじまりました…。
狂気と情熱
『セッション』という映画を言うとキャッチコピーに使われれたこの言葉が合うと思います。主人公のニーマンは子供の頃にドラムの演奏を褒められた「だけ」から自分は「さらに」偉大な音楽家になれるというパッションをもって全米一の音楽校であるシェイファー音楽学校に進み研鑽を積みますが、そこにフレッチャーが現れ彼に認められる=成功という道に陥ってしまった。ですが彼は結局一度のミスで全てを失います。
対するフレッチャーは単純にサイコパスにしか見えません。他人に対する共感力が低そうで、結局自己満足のために指揮をしている。そんな感じです。ニーマンの最初の失敗はフレッチャーに認められようとしたこと。フレッチャーはあの調子だと彼は早晩ボロを出してた気がするけれど、ニーマンはそれが強さに見えた。彼の父親は子を案じる、控えめだけどしっかりした人物なのに彼にはそれが弱さにしか映らなかった。とまあ、割と救いの無い話ではあるんですが、ラストの「セッション」がこの映画の肝になってきます。
呪縛のような『セッション』
意趣返しされたニーマンは急に決意してソロをとり始めます。当然プレイリストにもないし、みんな困惑するしフレッチャーに至っては普通に貴様は既に終わったのに何やってるんだとつめよりますが、ニーマンは止めません。普通に考えたらニーマンはフレッチャーは結局音楽的に凄いかもしれないけどクズだった。だからこれが最後なら好きにやってやると、開き直った、キれた、まあ言い様は色々あるでしょうけど吹っ切った訳です。ですがこのドラムソロがやがてうねりを産んで周りを巻き込み始めます。ある意味これはエクスタシーなわけです。ニーマンのいわば自慰行為。でもそれが波及していくわけです。音が重なっていき気持ちが良くなっていく麻薬みたいなもの…。それにやられてプレイがセッションになっていく。そこには音楽って楽しいものではなくなんか、道具っぽさもあるんじゃないのかとも取れるし、麻薬みたいな感じもある。そこに何かの呪縛みたいなものを感じたんですよね。一度これを知ってしまうと出てこれない。フレッチャーがにやりとするのなんか凄くそんな感じで。サスペンスだなあって思いました。
そんな映画を作ったデイミアン・チャゼルが次はミュージカル?なんかそれは音楽で掛けられた呪縛をミュージカルで解くのか?いやそれよりサスペンスを盛り上げていく手腕凄いんんだからあんたはそういう映画を撮りなさい『ゴーンガール』みたいなの!って思って『ラ・ラ・ランド』評判も良かったんだけどスルーしてたんですよね…で金曜ロードショーでの放送日とあいなったわけです。
夢の国『ラ・ラ・ランド』
『ラ・ラ・ランド』はざっくりいうと田舎町からハリウッドに出てきた女優志望のミアと何時かはジャズクラブを持つことが夢のジャズピアニスト、セブ(セバスチャン)が出会って恋に落ちる映画です。(ざっくりしすぎ?)ただ恋に落ちるだけではなく、2人がそれぞれの夢を追いかけていく夢追い人の映画でもあり、それをミュージカルとして仕立てている映画であり素晴らしい音楽とつかずはなれず2人を見守る視線の映画なんですが…。この映画は最初『セッション』の呪縛を解くために、というのも『セッション』ではあまりにも音楽というものが魔性のものと紙一重に描かれており、別の見方をすればニーマンもフレッチャーもその呪縛に囚われた人に見えるからなんですが、夢を追いかける人を主人公に「それが人生の意味」みたいな感じの映画を作って音楽に対する素晴らしさをもう一度呼び覚まそうとしたのかなと思っていたのです。でもこの映画のシナリオというか構想は『セッション』の前からあって、デイミアン・チャゼルはこれを作りたかったのだと『ラ・ラ・ランド』を観た後に知りました。
このエントリを読んで『セッション』前に企画があって作りたかったのか。チャゼル監督『セッション』での音楽の呪いを解呪するためのこの作品と思ってたがこれを作るために『セッション』で魔法陣を作って、誘い込んだ。そんな感じがするよ。 #ラ・ラ・ランド #ララランド https://t.co/C72YHTDpJE— tonbori堂@さらにいくつもの片隅に&アベンジャーズ/エンドゲーム待機中 (@tonbori) 2019年2月8日
Wikipediaの『ラ・ラ・ランド』にも記述あり。(プリプロダクション)
ラ・ラ・ランド - Wikipedia
それで思ってたことが完全に逆転したのです。『セッション』で呪縛をかけたのは『ラ・ラ・ランド』のためだったのかと…。だから2本の映画は音楽家が登場するのかと。
音楽の魔法陣
『ラ・ラ・ランド』は2人が夢を追いかけながらも全てが上手くいくわけでもない。それは万人が味わう成功と挫折を描いています。大成功でなくても大きな挫折でなくとも大なり小なり日々をしのいでいくことは共感を呼ぶのですが『セッション』ではそれをディフォルメして強調した訳です。そして音楽には魔力があるという流れを作った。チャゼルはそういうモノをつくる、そういう魔法陣を張ったわけです。
だから古式ゆかしきミュージカルをつくるにしても絶対に何かあると思わせてOPシークエンスのアバンタイトルで一発かましてきたわけです。あそこで虜になった人も多いのでは。でもそこに至るために『セッション』という呪いが必要だった。構想した時点ではチャゼルはまだ何者ではなく作りたいと願っているセブと一緒の存在だったから。幾つの仕事をこなし、自分の経験を落とし込んだ『セッション』がブラックリスト(ハリウッドのまだ映像化されていない人気シナリオリスト)に載った事から夢の国へのパスポートが開けた。だけどこの映画が失敗したら全ては水泡に喫する。だからこそ込めれるだけのものを込めた。結果音楽に対する愛憎半ばしたものが滲み出る作品となった。
『セッション』ってよくよく考えるとチャゼルは音楽嫌いでもあるのかなと思ったんですが、好きだからこそ挫折したその事についてどこかで昇華したかったと思うんですよね。だが『セッション』ではそれはわざと昇華させなかった。それは最終目標が『ラ・ラ・ランド』だったから。だからこちらでは音楽は弾むもの。スウィングさせるものとして描いて見せたのかなと知った後で思ったのです。だからチャゼルは魔法陣『セッション』作り『ラ・ラ・ランド』へ導いた。そんなことを思いました。
デイミアンの鏡
tonbori堂は音楽の歴史やジャンル分けにも詳しくないし、映画批評が出来るほどの知識もないですが、デイミアン・チャゼルのパンフレット程度の情報とネットで分かった話で想像するになんとなくそうかなと感じたのですがいかかでしょうか。実は両作品ともに映画評論家の町山智浩氏と音楽家でジャズミュージシャンの菊池成孔氏真っ向から対立する論評を出していたのは記憶に新しいところだと思いますがtonbori堂はお二人ほどの見識はないもののなんかどちらのご意見もしっくりこなかったんです。でも今回それを知ってようやく腑に落ちる感じがしました。当然どちらも独立した作品であるので個別に観るもよしだと思います。少なくとも私は両方を続けてみるってのは「疲れそう」なのでしないと思います(笑)
いや映画ってのはつくづく作った人のいろんな一面が出てきてそれが鏡のようになるんだなとあらためて思いました。これさしづめ「デイミアンの鏡」といったところでしょうか。(この『〇〇の鏡』の言い回しはゲーム『エースコンバット7スカイズアンノウン』に出てくるキーワードから拝借しています。)
※デイミアン・チャゼルの2作品。ある意味振れ幅の広さがあれど本質は同じ作品だと思います。
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