公開から暫く経ってしまったMCU映画としては29作目であり同一主人公の続編映画としてはMCU初の4作目となる『ソー:ラブ&サンダー』。やっと頭の中でまとまってきたので、繰り返しになりますが今頃感想です。で、今回の感想のタイトル、実は最初は某民間金融会社(ベタに言えばサラ金です。)のCMキャッチコピーが浮かんだんですよ、「そこに愛はあるんか?」ってあれ。でもまあここは90年代の人気ドラマ「ひとつ屋根の下」の名セリフ「そこに愛はあるのかい?」としときましょう、今回はそういう話でした。ジェーンが何故マイティ・ソーになったのか?ゴアは何故神殺しになったのか。ソーを含めてニュー・アスガルドを巻き込んだゴアとの戦いの顛末を含めて今回は…うん、なんでしょうね正直物足りなさがあります。ただその後色々な感想や考察を読んだけどいまいちピンと来なかったのも多く頭の中で発酵するまでちょっと時間を要しましたが(実は今も本当はまとまっていない)結局は「そこに愛はあるのかい?」っていう映画だったなという気がします。ということであらすじの後ぼつぼつと気になるところを含めて書いてみようかと思います。
Marvel Studios' Thor: Love and Thunder | Official Trailer/Marvel Entertainment/YouTube
※【注意】このエントリは『ソー:ラブ&サンダー』についての感想です。ネタバレ注意です。ポストクレジットバレしています。何卒ご容赦を😌
神殺しと愛の呪い/STORY
荒れ果てた大地を彷徨う親子。男は神に祈るが、やがて力尽き娘と共に倒れる。しかし誰かが自分を呼ぶ声で目を覚ます男。そしてオアシスのような別天地を見つけると、そこには自らの信じる神がいた。そして何故娘を助けてくれなかったのかと問うが人など神に捧げものを奉るだけの存在。取るに足らないとその神は一蹴する。そこに神殺しの剣、ネクロソードが男に問いかけ男はそれに応じ神を殺す。そして全ての神を殺すことを誓う。
ジェーン・フォスターは病に侵された。ステージ4のガンであり抗がん剤治療を受けていたがこのままでは先がない事が分かっていた。そしてある文献にムジョルニアにはふるう者に力を与えるとともに全てを治す力があると書いてあるのを見つけ藁にも縋る思いでニューアスガルドに向かう。そしてヘラに砕かれたムジョルニアの破片を見つめているとある異変が起こる。
ソーはガーディアンズと共に銀河の平和を護るために旅をしていた。その旅は今までの自分を見つめ直す旅でもあった。5年間でなまってしまった身体を鍛え直し元の肉体を取り戻したソーはストームブレーカーで悪を退治していたが銀河中からの救難信号の中でかつての仲間レディ・シフからのSOSを目に留める。今や相棒となったコーグとともにその星に駆けつけるためガーディアンズたちとは別れ救難信号の元に急ぐ。そしてその星を守護していた神、ファリガーの死体とその傍で片腕を失い重傷を負ったシフを見つける。シフはこれはネクロソードを持つゴアの仕業で彼の次の標的はアスガルド人。地球にあるニュー・アスガルドであるとソーに告げる。
早速地球に戻ってくるソーだがそれと同時にゴアも街を襲う。応戦するソーとニュー・アスガルドの王となったヴァルキリーやアスガルドの人々。しかし湧いて出てくるような敵に苦戦していた時に何処からともなく現れたムジョルニア。ソーはムジョルニアに手を差し出すがムジョルニアは意外な人物の手の元に、それは新たな「マイティ・ソー」となったジェーンだった。ジェーンの加勢でゴアの軍勢を押し戻すがアスガルドの子どもたちがゴアに連れ去られてしまう。果たしてソーはジェーン、ヴァルキリーらとともにゴアの神殺しを止め子どもたちを取り戻すことは出来るのだろうか?
そこに愛はあるのかい?
やっぱりこの言葉が出てしまいます。いやあるとは思うんですよ、それぞれに。でもそうなのかなってちょっと思ってしまうんですよね。ジェーンがガンを患いムジョルニアの力でマイティ・ソーとなるというストーリーラインは原作にもある展開ですからそれはいいんです。またゴアが信じていた神に見捨てられそこをネクロソードに付け入れられて神殺しになるのも原作展開なのでそこもいいです。というかゴアのシークエンスは完全に別物になるほどの力があると思います。今回クリスチャン・ベール、流してる(力抜いてる)とまで言われますけど(特殊メイクも原作の鼻無しではないし)普通に信じていたものに裏切られそれでもなお人として神への叛旗を翻すゴアを過不足なく演じておりゴアのシークエンスはどれも好きですね。おかしな人も巧いクリスチャン・ベール。いやバットマン=ブルース・ウェインも復讐に凝り固まったところあるし、『アメリカン・サイコ』のヤッピー(これも死語ですね)の殺人者など普通におかしい人をやってますがゴアは最初は普通の小市民であったからこそ実は彼を応援したくなるところがあるのです。
対するソーはなんかもう達観しているというか。結局ガーディアンズとともに銀河のお助け業に同行しつつも日々を振り返って周りの人たち、愛した人たちがいなくなってしまう人生、そういう人生ではない道を歩みたいと思いつつもそうならない運命を受け入れつつあります。だからこそニュー・アスガルドから一歩引きヴァルキリーに王座を渡し宇宙を巡っているんですが古き盟友シフ(思えばウォーリアーズ・スリーも瞬殺すぎて…あとコーグがホーガンの事を誰だっけ?っていうのはちょっと、ン?ってなりました。そういうとこやぞ、タイカ)のSOSをキャッチしガーディアンズの一行とは別れてシフの元に向かうところで度々ネットでも紹介される星を護る神が倒されたところはもう「凄いな!」ってなってました。そこからのニュー・アスガルドでの攻防もニッコニコで観てたんですけれどね。いや全体的に観てた時はニッコニコでしたよ。ほぼ観たい画は全部あったし。でもええっ?それだけ?ってなってしまったんですよね。言わせてもらうとオチの付け方には問題はありませんでした。ただストーリーが凄く断片的で次へのシークエンスへの転換もアクションの繋ぎも一見スムーズなんだけど物足りなさが凄く残るというか。その繋ぎの合間にワイティティ流のコメディシークエンスが入ってくる。前回の『マイティ・ソー:バトルロイヤル』ではオーディンの最後からヘラ登場、サカールへ飛ばされるソーやヘラによるアスガルド陥落、サカールでのヴァルキリーとハルクの邂逅からのアスガルドへの帰還。そしてラグナロク(原題名がソー:ラグナロクでした。)が丁度いい塩梅での章だてになってソーのキャラがようやく立ったなという中興の1作だったのに…。これ期待の大きさもあったのかもしれないけれどなぜこうなったのかと。
一つはそれぞれのキャラクターへの言及が浅いに尽きるかと思うのです。ソーだってエンドゲーム終盤からエンディングでは吹っ切った感じがありましたけどガーディアンズと旅に出たというのはまだ癒えない傷があったはず。でも何故かコーグの語りであっさりと処理されています。神話になぞらえて昔話な語り口を考えたのでしょうが、ならばその語りでソー視点で進むのかと思えばオープニング、アバンタイトルではまずゴアの物語をがっつりと入れてくるわけです。そりゃクリスチャン・ベール、助演でもオスカー受賞歴があるほど主演を喰う演技です。原作とは面相が違っても(だからこそでもあるけれど)喜怒哀楽が伝わる演技は流石です。そして寓話のような余白は十分に感じさせるけれどそれだけ?って思ってしまう訳ですよ。ヴァルキリーもそうです。ソーからアスガルドの王を引き継ぎなかなかの手腕でニュー・アスガルドを観光地化させて外貨を稼いでいる様子です。そこで察しろってなるやもしれんけど、そのヴァルキリーも描写があっさりし過ぎている。そしてジェーンです。
マイティ・ソー/ジェーン・フォスター
ジェーンがMCUにカムバック(エンドゲームでもちょっとだけ以前のフッテージとOFF台詞でしたが戻って来てましたけど)、しかも原作展開でもあったムジョルニアを持ちマイティ・ソーとなるというのはそりゃもう盛り上がりましたよ。そこまで原典のコミックスに明るくないtonbori堂でもジェーンがガンを患いながらも何故かソーになるという話は知っていたので。『ソー:ラブ&サンダー』ではどうなるのか?無茶苦茶気になったところでした。この辺りのことは流石に描写されていました。ソーとジェーンがまだ付き合っていた頃にソーがムジョルニアに自分がもしいなくなってもジェーンを護れとムジョルニアに無意識に呪いをかけた。そういう描写がありました。その一方で抗がん剤治療も際だった効果が無くふと目にしたムジョルニアに力により病が治癒するという文献に藁にもすがるつもりでニューアスガルドに訪れたジェーン。そして観光向けに展示されているムジョルニアの破片(前作でヘラに破壊された)が再び彼女に力を与えるけれどそれは所詮は仮初であり、しかも力をふるえばふるうほど抗がん剤など薬剤が効かなくなるという、これ呪い(まじない)どころか呪い(のろい)じゃないかと。そこはいいんですよね。でも救済がない気がするんですよね。でもあのクライマックスも良いと思うし…。そんな都合の良い奇跡というのはやっぱり見ていて冷めます。そうでなければエンドゲームでのトニーの最後が台無しになってしまう。けれどあのポストクレジットはなんなんだろうと。ヴァルハラへ行けるのはアスガルド人だけではないのかとかは別にしてまさかのフォース・ゴーストのように出せるようにしました感が覗いてうーんってなっちゃいましたね。
それならまだゴアを倒した後ビフロストで地球に戻った後にラブの力で治癒するでも良かった。何故ならラブはゴアの願いではあるけれどその実体はこの世のものではない…何かなのだから。「奇蹟」を起こせるのは何時だってこの世のものではない何かです。とは言えご都合主義と言われてしまうからこそジェーンは命を賭して亡くなるというのは納得できるはずだったのに…ヴァルハラですか。もしかすると本物の神になった?ということで神の概念についても色々モヤモヤするんですよね。
ゼウス/ポストクレジット/神
これまたビッグなキャストであるラッセル・クロウが演じているゼウス。ギリシャ神話のオリンポスの神々の中でも一番の力を持つ神ですが享楽的であり女好き。常に女神を侍らせているぐうたらな神様ですが、ゼウスの浮気性で女性好きなところはギリシャ神話知ってる人なら知っていると思います。だから観た時はワイティティ分かってるなーって思ったんですがあまり面白いシークエンスではないんですよね。ソー達はゴアに対抗するため神々に助勢を頼むため神々が集うオリンポス(宇宙空間に浮いてましたけどビフロストでしかいけない別ディメンションなのかどうかはちょっと分からなかったです)に行くわけですが怠惰で何もしないゼウスにキれたソーはゼウスを倒してしまうという下りになっています。ここ見どころはジェーンのムジョルニアの散弾攻撃(ひび割れたムジョルニアを破片状態にして攻撃する)ぐらいしか印象に残らないんですよ。後はソーがゼウスの力で一瞬で剥かれてしまうところ。ここは予告編でも確認出来てしまうけれど反対にいうと予告編以上の物が無い。
その倒されたはずのゼウスは一つ目のポストクレジットに再登場し神を敬わない人間どもに思い知らせるとともにその前に人に肩入れするソーへの復讐を息子であるハーキュリーズ(ヘラクレス)に命じます。いやヘラクレス前段で出しといても良かったんじゃ?まあ話がややこしくなるから今回はポスクレの顔見世で次はがっつり絡みますよって事なのかもしれないけどポスクレは今回2回とも乗れなかったですね。ゼウスはとっても面白いキャラクターだけに色々残念感が残りました。それとともにこの世界の神様描写もこれじゃ普通のおっさんと変わらないじゃないのと。もちろんそれぞれに俗人的描写があってもいいんだけどそこがそれだけに留まっている。冒頭のゴアの信じていた神ラブーというのも含めてなんですがゴアが彼を倒すというのは神への反逆な訳です。そこからMCUにとっての神とは?ってなるんですがゴアが一挙に神を消す最終手段を取ろうとするので神とは?という問いかけが中途半端になってしまっているのももったいなかったですね。
愛はあったけど…
多分面白かったという人はいると思うのですがtonbori堂はやっぱりモヤモヤが残りました。今年中には『ソー:ラブ&サンダー』も配信に(ドクター・ストレンジ:マルチバース・オブ・マッドネス(MoM)のように来月にはもしかすると)来るかもしれないので再見すると良い部分ももっと見つかるかもしれません。でも『ドクター・ストレンジMoM』のようには楽しめなかったのも事実です。ソーもジェーンもヴァルキリーも。ヴィランであるゴアも脇役であるゼウスでさえもキャラ立ちしていたのにです。だからこそもう少し踏み込んで欲しかったけどワイティティそこはのりしろあるからということで踏み込まなかったですね。題材に関して前作が姉弟げんかを銀河スケールで(しかも周りを巻き込んだ)やっただけなのでストレートで分かりやすかったし、ラグナロクで国(ホーム)が崩壊しても(宿なし)になってもホーム(それは国でもあり家でもある)はそこに人がいればそこがホームという話もあったんですが、今回は基本愛の話でゴアとソーの対比にジェーンがマイティ・ソーになった部分と決着の部分ですよね。ゴアの最後の願いとラブ。そこは外してないけど神様要素が(重要なんだけど)却ってノイズになってしまった感じです。第1作に戻れとは言わないけれどソーは神様でもあるのでそこをどう語るのかは一つ課題になるかなと思います。ソーはまた帰ってくるとの事なので次回作または登場作を観て判断したいところですね。
でも観てる最中は面白かったし本当にニッコニコでした。それだけに見終わった後にうーんってなってしまったのは本当に残念です。でもアベンジャーズの中で2人だけ残った初期メンバーの一人であるソー、彼の冒険はまだまだ観たいので次の活躍に期待しています。
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