クリストファー・ノーラン監督の最新作『オデュッセイア』を鑑賞してきました。観終わった直後に真っ先に感じたのは、これは血生臭い戦争から帰還する途上、自らの過去の行いを嫌というほど追体験させられ、トラウマに心を病んだ男がそれでもなお「我が家」へと戻ろうとする物語だということです。古典的な「ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)」の一亜種でありながら、極めて重厚な人間ドラマに仕上がっています。ということで、今回は『オデュッセイア』について簡単なあらすじの後、じっくりと振り返りながら感想を綴ってみたいと思います。
※今回のエントリは箇条書きにしたプロンプトをGoogleの対話式AIGeminiで文体を整え加筆修正したものです。プロンプトはまたnoteにて後日公開いたします。
遥かなる家路/STORY
イタカの王オデュッセウスがトロイアの戦争で出征して20年。戦いはアガメムノン率いる連合軍の勝利で10年前に終結したが未だオデュッセウスは戻らず、国は荒れた。残された王妃ペネロペの元には国を護るためと称して求婚者が集まり夜な夜な酒宴を開いていた。オデュッセウスの息子テレコマスは父を探すため同じく遠征軍として出陣し、やっと国に戻ったというアガメムノンの弟でスパルタ王メネラオスに話を聞きに行こうとする。
一方、オデュッセウスはある島で美しい女カリプソに介抱されていた。しかし昔の事を思い出せず何故この島に辿り着いたのかも思い出せない。しかし白衣の女とカリプソ促され何故こうなったかを思い出そうとする。そしてあのトロイア戦争の顛末とその後の帰還への苦しい海路の旅を徐々に思い出していくのであった。全てを思い出した後に彼は果たしてイタカに戻れるのか?
IMAX映像体験と被写界深度の絶妙なバランス
クリストファー・ノーラン作品といえば、まず話題に上るのがIMAXカメラへの強いこだわりです。確かに大画面で観る圧倒的な迫力と臨場感は、映画館という空間でしか味わえない唯一無二の体験を生み出しています。
事前情報やSNS(X)などでは「被写界深度が浅すぎるのではないか」といった指摘も見かけましたが、実際にスクリーンで鑑賞してみると、tonbori堂はそこまで気になるレベルという感じではないかったです。むしろ、主人公オデュッセウスの主観的な孤立感や内面の混乱を強調する効果として機能していたように感じられます。特にオープニングシーンのシノンがトロイア兵に襲われるシーンなどはまるでここはこの世ではないかのようなぼやけた感じでそこから映画が始まるのでまさに夢現と現世への帰還というストーリーにはぴったりだったかもしれません。
とはいえ、「もしこれがシネスコ(シネマスコープ)サイズで上映された場合、画面の構図や空気感はどう変化するのだろうか」という疑問も湧いてきます。ノーラン作品はIMAXで観るものというのは時にIMAXで観なくちゃという同調圧力的めいたものを受ける時も無きにしも非ずです。そのため上映フォーマットによる印象の違いについても、すこし気になりました。ただ空間を贅沢につかっているのでシネスコでも映えるのではと個人的には感じていますが被写界深度の浅さがシネスコでは弱点になってしまうかもしれません。
時系列の交錯と3つのドラマ
物語の背景となるのは、10年続いたトロイア戦争の終結からさらに10年が経過した世界です。イタカの王であるオデュッセウスはいまだ帰還を果たせず、国は荒廃。王城では、王妃ペネロペに対して求婚者たちが押し寄せ、連夜の宴を繰り広げています。
ホメロスの原典『オデュッセイア』自体がカリプソの島から始まり時間軸を行ったり来たりする構造を持っているため、本作でも時系列のシャッフルが多用されています。映画は冒頭のトロイアのシーンから一気にイタカへと移り、過去と現在が交錯していきます。
しかし、従来のノーラン作品(『テネット』や『インセプション』など)のように「構造が複雑すぎて初見では混乱する」ということはありません。「ペネロペのパート」「息子テレマコスのパート」「オデュッセウスのパート」という3つの軸が極めてクリアに整理されており、非常にストーリーに入り込みやすい設計になっていました。時間軸をガチャガチャするのが好きなノーランにしてはここは素直に作劇しているなという印象です。
『オッペンハイマー』との類似性とノーランの作家性
ストーリーの分かりやすさの一方で、作品の底流に流れるテーマを吟味していくと、前作『オッペンハイマー』との強い類似性に気づかされます。(これはXや映画系YouTubeでも何人かの方が指摘されています)
ノーラン監督の過去作を振り返ると、「圧倒的な才能を持ちながらも、真の安らぎや家路を渇望し、しかしそこへ戻ることができない男」という主人公が繰り返し登場します。そして、彼らの周囲にいる女性たちは、その業や運命に巻き込まれて不幸になっていきます(『インセプション』における妻モルなどが典型ですね)。本作における女性たちの描かれ方も、その系譜を感じずにはいられません。
現実のノーラン自身は、プロデューサーである妻のエマ・トーマスと二人三脚で映画を作り続けている人物です。しかし作中では、常に二律背反する葛藤を抱えた男を描き出します。そして自身もまた、時代に反抗するかのようにフィルム撮影やIMAXというクラシックかつ苛烈な表現手法に耽溺し、表現の限界へと突き進んでいきます。映画制作に邁進するノーランの姿は、劇中で苦難の旅を続ける主人公たちの執念と、どこか深く重なり合っているように見えます。
人間味あふれるキャスト陣と多様性のリアル
キャスト陣の好演も、この重厚なドラマを大きく支えています。
マット・デイモンが演じる「人間臭いオデュッセウス」
主人公オデュッセウスを演じるのはマット・デイモンです。ウォルフガング・ペーターゼン監督の映画『トロイ』ではショーン・ビーンが同役を演じ、知将としての凛とした佇まいを見せていました(ショーン・ビーンもまた苦難を背負う役に縁が深いですが、あの作品では知略家としての側面が強調されていました)。
一方、今作のマット・デイモンが演じるオデュッセウスは、「知恵者」であり「善き人」であろうと葛藤しながらも、極限状態では自らの生存を優先してしまう、泥臭く生々しい「人間味」に満ちていました。だからこそ、彼の背負う悔恨が観客の胸を強く打ちます。
意志ある女性たちと幻想的な存在
妻ペネロペ役は、毅然とした強い意志を感じさせる演技が光り、『オッペンハイマー』でエミリー・ブラントが演じた妻像の系譜を感じさせました。また、ゼンデイヤが演じるアテナ(と思われる存在)は、単なる神というよりも、主人公のトラウマが生み出した「イマジナリーフレンド」のような幻想的な異彩を放っていたのが印象的です。
キャスティングと歴史的リアル、そして小さな違和感
スパルタ王にジョン・バーンサル、ヘレネ役(およびアガメムノンの妻クリュタイムネストラ役)にはルピタ・ニョンゴが起用されています。一部では「古代ギリシャ劇に黒人キャストを起用すること」への異論も出たようですが、実際に観てみると全く違和感はありませんでした。古代地中海は海上貿易が極めて盛んであり、アラブやアフリカ系の人々との交流が日常的に存在していたことを考えれば、歴史的にも十分に納得のいくリアルさです。また、副官エウリュコロスを演じたヒメーシュ・パテル(『テネット』)の存在も自然に馴染んでいました。
ただ一点、イタカの兵士の中にアジア系兵士(ウィル・ユン・リー)が混ざっていたことだけは、若干の唐突感(「ノーランなりの多様性の配慮でしょうか?」というメタ的な思考)を抱いてしまいました。もちろんウィル・ユン・リー自体の演技は素晴らしく、役に何ら文句はないのですが、地中海文明の文脈の中でそこだけ少し浮いて見えたのも事実です。
魔女キルケーの恐怖と絶妙なトーン
オデッセイといえばの一つ目巨人サイクロプス(キュプロクス)や、セイレーンが有名ですけれど、魔女キルケーの魔法のシーンは、独特の不気味さと怖さがありました。本作はホラー映画ではないため、直接的なゴア(残酷)描写にまで振ることは避けていますが、それがかえって魔女としての異質さと恐ろしさを引き立てています。
原典の神話を知り尽くしていなくとも、彼女がなぜそのような行動に出るのかという「動機付け」が映画的にしっかりと補完されており、作品全体の重厚なトーンを崩すことなく見事なスパイスとなっていました。
ラストシーンの考察:「物語(詩)」として語り継ぐ理由
本作で最も深い余韻を残すのがラストシーンです。ペネロペから「なぜこれほどの惨劇を、歌(詩)として謡わせたのか」と問われたオデュッセウスは、「起きた出来事を、後世に伝えるためだ」と答えます。
劇中で直接的に詩人を手配したり仕掛けたりするシーンが描かれているわけではありません。しかし、己の犯した過ちや地獄のような体験を「物語」や「歌」という形に託して遺していくという構造は、どこか古代文明の遺産として遺された歌が戦争を止めるキーとなる『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』のような構造を連想させます。
『愛・おぼえていますか』における歌が、もともとは普通のラブソングでありながら長い年月を経て特別な意味を持ったように、オデュッセウスが残した個人の過ちと悔恨の記録(詩)もまた、やがて時代を経て世界の「常識」や「神話」として語り継がれていきます。自らの悲劇を客観的な「物語」に昇華させることでしか、人間はトラウマと向き合い、未来へ教訓を残すことができないのかもしれません。ノーランがそこまで計算して描いたのだとしたら、その洞察力には脱帽するばかりです。
最後に「遥かなる家路」の果てに
映画『オデュッセイア』は、単なるギリシャ神話の壮大な映像化にとどまらず、トラウマ、悔恨、そして「語り継ぐことの意味」を問いかける、ノーラン監督の極めてパーソナルで深い精神性が反映された作品でした。
過去の過ちを抱えながらも、なお「家」を目指して歩み続ける人間の愚かさと気高さ。スクリーンを通して体験するその圧倒的な「旅路」でしたね。
こぼれ話としてこの作品ユニバーサルスタジオの製作で日本だと東宝東和との共同配給になるのですが前作『オッペンハイマー』を東宝東和が配給を見合わせ配給をビターズ・エンドが請け負った事から今回もビターズ・エンドが配給しています。あっさり東宝東和ではなくビターズ・エンドが引き続き配給したのは少し良かったなと思いました。
※ブクログ/Amazon⦅AD⦆ホメロスのオデュッセイア、岩波文庫から出ています。
ホメロス オデュッセイア 上 (大活字版岩波文庫 赤102-4)ホメロス オデュッセイア 下 (大活字版岩波文庫 赤102-5)




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